2011年7月8日金曜日

東日本の復興とエネルギー政策

これはある新聞に提出した提言である。刻一刻と事態はかわる。これをここに発表してよいのかわからないが、期限切れになってしまう前に、すこしでも多くの人に読んでほしいと思ったので転載する。
5月に書いた文章だが、基本的な内容は今のところ変わっていない。

 私は横浜で設計事務所を経営しながら、東北の大学で建築を教えている。毎週、大学のある山形と事務所のある横浜を行き来している。そうすると否応なく日本の中心である東京と地方が抱えるそれぞれの問題が見えてくる。そして、地方で起こっている様々な問題は東京でも将来起こりうる。現在、地方は流出人口が多く、急ピッチで人口減少、高齢化が進んでいる。いずれ、東京も同じようになる。その点で日本がどうなっていくのかとても気になる。2004年に、人口はピークを向かえ、すでに減少し始めている。2050年には8500万人ほどに減り、現在の65%程度となる。そのような状況のなかで、今回の震災は起こった。これから復興の絵を描くときにも、この前提は変わらない。日本が将来どうして行くべきか、どこへ向かうべきか論じていきたい。

■エコロジーについて
 いまから3年前、2008年。洞爺湖サミットで福田ビジョンが発表された。日本も低炭素社会を目指そうというものである。世間話をする延長で地球環境やエネルギー問題を専門とする同僚に「低炭素社会になったら、建築はどう変わるのか。」を聞いてみた。答えは至って簡単に「見た目の問題じゃなく、エネルギーの問題として、そりゃもう全然変わります。」との答え。まだ、ピンとこない。続けて「今の住宅は、どんどんエネルギーを使って、バンバン二酸化炭素を出しているけど、そんなんじゃ、石油がいくらあっても足らない。根本的に変わっていくんです。」「ドイツとかオーストリアではエコロジーを意識しながら、エネルギーをほとんど使わないかっこいい建物が建ってますよ。」と。また「日本にも、暖房がいらないような家を建てている建築家もいますよ。」と付け加えられた。
 そこで早速、秋田県能代の建築家のアトリエやオーストリアの最先端の住宅やプラントを見学に行った。秋田で見たのは、今にも雪が降りそうな曇天の冬のさなか、30坪程度のアトリエが小さな石油ストーブで十分に暖かくなっていた。十分な断熱がされ、エネルギーの出入りが少ないので、快適になるのだという。断熱材の厚さは20〜30cm。通常の約4〜5倍の量である。建築家の西方里美さんから「住宅は器の性能が大事である。」、「熱に関して、建築家はもっとちゃんと科学的に勉強しなくてはいけない。」ということを習う。家に大きな吹き抜けがあると、二階の気温が高く、一階の気温が低いということは当然のことだと思っていたが、それは間違いだと言う。もし、家が十分に断熱され内部と外部に熱のやり取りがなければ、そんな対流は起きない。家全体が一定温度になるということまで教わった。

■オーストリアの現在
 次に訪れたのはオーストリア。日本ではチロル地方などアルプスの沿いに国が位置する。そこでは何件かの住宅や地域を訪ねた。端正な木造の建物が美しい。美しいばかりではなく、暖房もバイオマスエネルギーを上手に使っている。オーストリアは石油ショックの後、徐々に対応してきた。ロシアからの天然ガスのパイプラインが政治的な問題でエネルギー危機になる可能性もある。そこで、森林に目を付け、バイオマスエネルギーの普及を進めた。いまでは、バイオマスエネルギーが全体のエネルギーの30%に近づいている。国からの政策的な後押しがあり民間でも導入しやすい。特に融資制度が充実していて、設備の半分を国が補助し、そのまた半分を銀行が融資し、個人が取り組む。実に四分の一程度で地域冷暖房が導入できる。もちろん、融資を返済した後は、個人の財産となる。その結果、個人のモチベーションはあがり普及が加速度化する。彼らに聞くと、「バイオマスの方が安いから、そっちをつかうよ。」とにべもない。オーストリアの状況は、林業が発達していて大きな製材所も数多くある。その廃棄物としてのエネルギーなので、当然コストは抑えられる。ショックだったのはボイラはオーストリア製なのだが、そこで使われているコンピュータ本体は日本製だ。デバイスをつくるのがうまくても、利用しなければ意味がない。また、地域暖房などでも、給湯管のパイプラインなどの道路の敷設で、日本では多くの費用がかかるが、地元の人は、特に誰に頼むではではなく、自らの手で敷設しているという。エネルギーシフトを成功させているオーストリアの社会と全然進まない日本の社会。森が多い点でも日本とあまり変わらない、第2、3次産業が盛んな点でも日本と産業構造的には似ている。オーストリアはここ10年ほどで大きく変わったという。

■木の可能性。 二酸化炭素の固定化、 エネルギー、森の再生。
 さて、最先端の住宅の材料はなんであろうか。答えは至ってシンプル。木造である。第一に木自体が二酸化炭素を固定化することで、エコロジカルである。
木はその生きている間、光合成をして二酸化炭素をその体内に固定化する。成長量より少なく木を切れば、二酸化炭素を固定化した木をどんどん増やしていける。また、他の材料と比べてもエコロジカルである。鉄やコンクリートは製造するときに大量のエネルギーが必要だ。鉄は溶鉱炉の熱、セメントは石灰岩を乾燥させるために大量の熱を使う。しかし、木は材料の運搬エネルギーがかかるだけだ。また木はエネルギーとして使ってもエコロジカルである。いわゆる薪である。今風に言い換えるとバイオマスエネルギーと呼ぶ。(ちなみに日本におけるバイオマスエネルギーは穀物由来ではなく、ほとんどが木材だ。)これらはほとんど二酸化炭素を出していないと計算していい。木を燃やすと二酸化炭素はでるが、木の生涯が貯めた二酸化炭素を放出していると考えられるので、その二酸化炭素は排出量として数えなくてよい。以上の3点から、木をエネルギーとしても使うべきだ。日本は世界でも有数の木材資源が豊かな国である。国土における森林率は67%(2002年)、岩手、秋田、山形、福島の4県は70%を超える。この森林率はバイオマスエネルギーの利用が盛んなフィンランド、スウェーデンに匹敵する。その森林は国内で外国産の安い材料が流通したのであまり手が付けられていない。むしろ、間伐など適切なメンテナンスがされていないくて荒れ放題である。森を再生するために手を入れなくてはいけない。

■日本の住宅
 日本では徒然草、吉田兼好の「住まいは夏を旨とすべし。」という教えが頑なに信じられている。冬は我慢できても、夏は我慢できないことを端的に言い表したものだが冷暖房がまったくない鎌倉時代の話である。現代はもちろん冷暖房があり室内の温度をコントロールできる。でも、住まいの器は昔の考え方のままである。それでは、エネルギーが無駄使いになってしまう。あまりにもったいない。ちょうど、日本の自動車がアメリカの自動車と競争をしていた時代を思い出してほしい。当時、日本車は大型だったアメリカ車に対抗し、小型車でアメリカ車に挑んだ。アメリカ車は大きく、重く、大量のガソリンを必要とした。そこに、日本車が小さく、軽く、燃費のよかった。徐々によさが認められ、アメリカ人も小さく燃費のよい日本車を求めるようになった。日本のメーカーは車を小さくすることで、必然的に燃費が向上しアメリカ車に勝ったのである。今の日本の住宅は、このときのアメリカ車に似ている。断熱性が低いので、冷暖房器具の能力を上げて、対応している。当然、エネルギーは無駄使い、冬には必要な部屋しか暖房しないので室内の各部屋での温度差が大きくヒートショックの原因にもなる。まるで、大きい車体に大型のエンジンを積んでいたアメリカ車とそっくりである。これらの話は実は沖縄以外、九州から北海道まで日本全国共通の問題である。どちらの地方も、冬になると最低気温は0度近く、そこから20度まで暖めるのにある程度のエネルギーを使うからだ。

■エコハウス
そういう状況のなか、大学の敷地に、エコハウスを建てる機会が得られた。もろもろ研究したことも踏まえて、3つの特徴のある建物とした。
1、山形の木でつくること
2、徹底した省エネルギー
3、自然エネルギーの活用
 前述とおり、木でつくることはエコハウスの第一歩である。特に仕上材は経年変化で狂うことを嫌って、様々なプラスチックや変化の少ない工業製品で置き換えられているが、積極的に木でつくることとした。また、エネルギーの無駄使いでは意味がない。徹底した省エネルギーとするために、断熱材を屋根にグラスウール400㎜、壁に300㎜設置した。開口部はトリプルガラスが嵌った木のサッシである。これらのことを対応すると、断熱性能があがって、エネルギーのロスが極端に抑えられる。木材豊かな東北の地なので、バイオマスと太陽光発電を併用させた。スペックは太陽電池 5kW、太陽熱温水器 30㎡登載。熱源としてペレットボイラを設置し、太陽熱温水器の水と混合して、暖房・給湯を行っている。
竣工して1年、年間を通じて売電量が多く、経済的な収支でもプラスとなっている。したがって、環境に対して、二酸化炭素を排出しないカーボンニュートラル(化石燃料を使わない)であるばかりではなく、あること自体でエネルギーを産んでいくプラスエネルギーの家であると考えられる。今回の震災時、山形ではまる2日間停電した。しかし、優れた断熱性能があったおかげで、電気が止まっても、その間、室温が18度から下がらなかった。断熱性能はた単なる省エネルギーだけではなく、停電などの災害にも強い。
 ヨーロッパでは2021年以降、すべての新築の工事ではカーボンニュートラルでなければならない。このエコハウスは法規制に準拠する。ヨーロッパでは標準だ。日本にはまず省エネルギーに関して義務化する法律はまだない。ただ、ストックが余り、業界が縮小していく建築分野ではメーカーやビルダーの間での性能の差異化が着々と進んでいる。
 高断熱の実現のために断熱材のコスト増は大きな問題ではない。建材の分野で、日本がおくれているのはサッシなどの建具周りの分野である。この気密がたらず、アルミサッシによる熱損失が大きい。メーカーによると今までは需要がないので対応していないと応える。法律などが整備されれば、たちまち高性能なサッシが出回るだろう。住宅の省エネルギー化により、電力量はかなり減らしていくことができる。一般の住宅だけではなく、公共建築の省エネルギー化もこれから必要な政策であろう。現在、日本の消費電力量のなかで家庭用が28.2%、業務用が29%となっている。住宅やオフィスのエネルギー節約は電力量の節約という点で効果的だ。一方、製造業(42.8%)の省エネルギーについては、よりい一層企業努力を促すために、ピークの時間をずらすことができることを促すような料金体系を望みたい。そうすることで、ピーク時の消費量が抑えられ、全体の設備のキャパシティ自体を抑えられる。

■大学のある山形の状況
 地方の都市がそうであるように、中心市街地の活性化の問題がある。郊外にショッピングセンターができることにより、中心市街地が空洞化する。そこで、大学の同僚や学生たちと残されている古い蔵の利活用をするプロジェクトを始めた。そうすると、一様に見えていた「まち」がいろいろな状態であることに気づく。単純に大型ショッピングセンターのまねをしようとしても太刀打ちできない。でも、独自性のある個性的なものは確実に人を集める。また、行政の縦割りも見えてくる。ある日のこと。「都市と地方を結びつけるために、農作物を中心市街地に集めて、観光客に振る舞ってはどうか。」というテーマのもと活動しようとしたが、まるでうまく行かない。農は農林課、中心市街地は商工課、都市との交流は観光課、実はセクションに分かれていて、どの課が担当するか見えてこない。本来、横断的なセクションがあるべきなのに、なかなかそうはなっていない。

■日本の将来
 日本が人口を減らしていきながら、豊かさを感じるためには、さまざまな価値観を変えていかなければいけないと思う。日本全体のGDPの伸びを競うのではなく、個人の所得の伸びを考えればよい。65%に減っていく人口に対して、GDPの伸びを論じること自体おかしい。人口減少社会において、今ある資産は有効に使われなければならない。たとえば、建築。既に十分な床面積を供給している。床の多寡ではなく、性能を充実化させるところに成長の余地がある。また、新しいエネルギー産業を起こさなくてはいけない。それは中央集権的なものではなく、分散型である程度、手間のかかるものであっていい。そうやって、雇用を産み出していく。それらはできるだけ今あるものをどう利用するかという考え方が必要だ。従来のように加工貿易型でモノを生み出すのではなく、技術そのものが価値になるような分野を開拓しなければならない。その代表的な例が自然エネルギーによる産業である。それらは分散型で地域に対して有効な産業となる。自然エネルギーには現実的なものとして、太陽光発電、風力発電、バイオマスエネルギーによる熱供給および発電などがある。まず、日本全体の問題として、エネルギーをどう考えるのかを決めていかなくてはいけない。現状と同じ量を今までと同じように使い続けることはどうみても合理的には思えない。技術革新をしながら節電をして、トータルの量を減らす努力をする。日本の自動車の燃費が向上したように、様々な分野で徹底して行う。また、人口の減少に合わせて、必要なエネルギー自体を抑えていくこともひとつの提案であろう。そのために現在どこでどのくらいのエネルギーが使われているか「見える化」する必要がある。そして、数値目標化し、具体的に電力のあり方が議論できるようにするべきである。また、お互いの電力を融通できるように、送電網を国有化し、日本版スマートグリッドを早急に押し進める必要がある。もちろん、周波数の問題は真っ先に取り組むべき課題である。加えて、送電網の国有化とともに、自然エネルギーへのシフトを積極的に進める政策を行う必要がある。
 さて、原子力発電に関して安全の確認を行いながら、しばらくは使い続ける必要があるだろう。しかし、そこでの安全や管理は今までと同じであってはならない。福島の事故は今の枠組みで起こってしまった。やはりそこに改善の余地は大いにある。安全基準の見直し、再確認に関しての第三者機関の設置も重要と考える。
 そういった長期的な日本の国としてのあり方、エネルギーのあり方を論じながら東日本の復興計画を位置づけたい。国が目指すべき姿、そのためのリーディングプロジェクトとしての復興計画である。

■沿岸型(三陸の市町村)
いずれの復興も人口の減少エリアの場合、ただ単に補償しても、人口が減る限り、町や村の将来はない。たとえ地震や津波がなかったとしても都市の統廃合が進んでいただろう。それを前提として、地元を活性化するには、人々が移り住みたくなるような魅力あふれる産業が必要だ。これが自然エネルギー特区によるエネルギー産業であり、第一次産業である。
 エネルギーの種類は、太陽光発電、太陽熱エネルギー、風力エネルギー、バイオマスエネルギーである。津波に襲われた地域では、あるコンセンサスが必要だ。そこにとどまるか移住するかである。私は後者を薦めたい。だが、どうしても沿岸部に残さざるをえない施設がある。その場合、 ある区間ごとに避難用のタワーをつくり、安全を確保したい。おそらくコンクリート造4階建て。一、二階は波が来ても抵抗がないように柱だけにして、その上に仮設的な事務所などをつくる。
 一方で、住民が住むのは高台を切り開き、コミュニティごと移住する。大事なのはコミュニティ全体でという点。阪神淡路大震災では、高齢者を優先的に入居させたことでコミュニティが分断し、孤立化した高齢者が孤独死していったことを忘れてはならない。
 そこでは、様々なエネルギープラントのテストを行い、住民はモニターとなる。建築は高断熱高気密として、断熱性能をあげ、少ないエネルギーでランニングできるような木造の低層建てとする。エネルギーを多く使わないライフスタイルをめざす。ここは、エネルギーに対して完全自立型をめざすので、現行法規の規制を超えた特区として、新しい実験の場としつつ、住民には快適で安価な生活を保証する。いくつかのエネルギーを混在させ、将来に向かって最適化していくようなシステムとする。電気は太陽光発電と燃料電池の併用。燃料電池は従来だと多くのお湯ができてしまうが、それとバイオマスのボイラを併用して、各戸へ地域暖房を敷設して共同でつかう給湯システムとする。また、風力発電の安定化につとめるため、蓄電池の性能実験を行う。同じ岩手県の葛巻町などは電力自給率が100%を超えている。こういった取り組みを、復興支援として後押しするのだ。
 
■都市型(仙台、石巻)
ここでも同じような展開が考えられるが、特区のあり方として、住宅が集合した状態でのエネルギーのあり方を考えるのが望ましい。集合住宅はエネルギー的には、効率的になるのでより有利になる。これは、東京などの都市部への応用を前提に考えていく。高い断熱性はもちろんのこと、自然エネルギーを積極的に使う。特に給湯やゴミ焼却などの都市的な生活資源をエネルギーの材料として扱う。建物は3〜4層の中層として、屋根には太陽電池を設置する。化石燃料とバイオマスのハイブリッドシステムを利用する。
また、電気料金の払い方を住民の意志によって、発電所の形式によって選択できるようにする。

■原発避難型(福島の市町村)
住民が現地に戻れるのが最良の方法だと思うが現状で直ちには判断できない。財産の保全は当然として、コミュニティを保ちながらの、一時的な避難場所を県外あるいは県内に探してみる可能性はないだろうか。そこではもちろん農業や林業に携わりながら、自然エネルギーのプロジェクトに参加する。

いままで、エネルギーのことを中心に論じてきたが、忘れてはいけないことがある。それは日本人の心、自然に対する世界観である。日本人は自然に対して、四季の違いを意識し、その景色を愛してきた。そういう風景は保全されるべきである。一方、ロードサイドの郊外型の店舗の看板など、本来ないほうがいいものが多くある。この復興にあたって、この沿岸部の風景をそういった視点でコントロールしたら良い。理由は2つある。一つは外部的な視点から。これらの復興プロジェクトは、リーディングプロジェクトであることから、それ自体を観光資源としたい。地震や津波のことを考え、これからの日本のプロジェクトの象徴的存在としたい。もう一つは内的な「こころ」の問題である。看板や建物の景観は、原則経済活動を妨げない範囲で行われてきた。ただ、震災によって本当にあるべき姿は何か常に考えさせられる。経済活動を推し進め、突き詰めた結果が地震を自然災害としてだけではなく、人災も加わった複合災害にしているように思えて仕方がない。ここはひとつ、本来あるべき姿、景観、景色を考えるべきではなかろうか。
 
以上、私のエネルギー政策は、自然エネルギーへのシフトを前提に、そのリーディングプロジェクトとして、震災の復興を考えた。現在の日本を復興させていく方法はそれほど簡単ではない。しかし、国がある方向に向かっていくためには、国民すべてが納得できるようなプランが必要だ。エネルギーに対して技術で答えていくことが日本の採るべき道だと思う。

2011年7月4日月曜日

「非現実的な夢想家として」

村上春樹さんのカタールニャでの「非現実的な夢想家として」と題したスピーチの全文を掲載します。


 この前僕がバルセロナを訪れたのは、2年前の春のことでした。サイン会を開いたとき、たくさんの人が集まってくれて、1時間半かけてもサインしきれないほどでした。どうしてそんなに時間がかかったかというと、たくさんの女性読者が僕にキスを求めたからです。僕は世界中のいろんなところでサイン会を開いてきましたが、女性読者にキスを求められたのは、このバルセロナだけです。それひとつをとっても、バルセロナがどれほど素晴らしい都市であるかがよくわかります。この長い歴史と高い文化を持つ美しい都市に、戻ってくることができて、とても幸福に思います。
 ただ残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、もう少し深刻な話をしなくてはなりません。
 ご存じのように、去る3月11日午後2時46分、日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。地球の自転がわずかに速くなり、1日が100万分の1.8秒短くなるという規模の地震でした。
 地震そのものの被害も甚大でしたが、その後に襲ってきた津波の残した爪痕はすさまじいものでした。場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しました。39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても助からないことになります。海岸近くにいた人々は逃げ遅れ、2万4千人近くがその犠牲となり、そのうちの9千人近くはまだ行方不明のままです。多くの人々はおそらく冷たい海の底に今も沈んでいるのでしょう。それを思うと、もし自分がそういう立場になっていたらと思うと、胸が締めつけられます。生き残った人々も、その多くが家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、生活の基盤を失いました。根こそぎ消え失せてしまった町や村もいくつかあります。生きる希望をむしり取られてしまった人々も数多くいらっしゃいます。
 日本人であるということは、多くの自然災害と一緒に生きていくことを意味しているようです。日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台風の通り道になります。毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。それから各地で活発な火山活動があります。日本には現在108の活動中の火山があります。そしてもちろん地震があります。日本列島はアジア大陸の東の隅に、4つの巨大なプレートに乗っかるようなかっこうで、危なっかしく位置しています。つまりいわば地震の巣の上で生活を送っているようなものです。
 台風がやってくる日にちや道筋はある程度わかりますが、地震は予測がつきません。ただひとつわかっているのは、これがおしまいではなく、近い将来、必ず大きい地震が襲ってくるだろうと言うことです。この20年か30年のあいだに、東京周辺の地域を、マグニチュード8クラスの巨大地震が襲うだろうと、多くの学者が予測しています。それは1年後かもしれないし、明日の午後かもしれません。にもかかわらず東京都内だけで1300万の人々が、普通の日々の生活を今も送っています。
人々は相変わらず満員電車に乗って通勤し、高層ビルで仕事をしています。今回の地震のあと、東京の人口が減ったという話は耳にしていません。
 どうしてか?とあなたは尋ねるかもしれません。どうしてそんな恐ろしい場所で、それほど多くの人が当たり前に生活していられるのか?
 日本語には「無常」という言葉があります。この世に生まれたあらゆるものは、やがては消滅し、すべてはとどまることなく形を変え続ける。永遠の安定とか、不変不滅のものなどどこにもない、ということです。これは仏教から来た世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し別の脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。
 「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても無駄だ、ということにもなります。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。
 自然についていえば、我々は春になると桜を、夏には蛍を、秋には紅葉を愛でます。それも習慣的に、集団的に、いうなればそうすることが自明のことであるかのように、それらを熱心に観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば人々で混み合い、ホテルの予約をとるのもむずかしくなります。
 どうしてでしょう?
 桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。私たちはそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そして、それらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さなひかりを失い、鮮やかな色を奪われていくのを確認し、そのことでむしろほっとするのです。
 そのような精神性に、自然災害が影響を及ぼしたかどうか、僕にはわかりません。しかし私たちが次々に押し寄せる自然災害を、ある意味では仕方ないものとして受けとめ、その被害を集団的に克服していくことで生きのびてきたことは確かなところです。あるいはその体験は、私たちの美意識にも影響を及ぼしたかもしれません。
 今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けました。普段から地震に馴れているはずの我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ抱いています。
 でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて僕はあまり心配してはいません。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は補修できます。
 考えてみれば人類はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。ここに住んで下さいと地球に頼まれたわけではありません。少し揺れたからといって、誰に文句を言うこともできない。。
 ここできょう僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。それはたとえば倫理であり、規範です。それらはかたちを持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。
 僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。
 みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった6基の原子炉のうち3基は、修復されないまま、いまも周辺に放射能を撒き散らしています。メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、海に流されています。風がそれを広範囲にばらまきます。
 10万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から立ち退きを余儀なくされました。畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。ペットや家畜もうち捨てられています。そこに住んでいた人々はひょっとしたらもう二度と、その地に戻れないかもしれません。その被害は日本ばかりでなく、まことに申し訳ないのですが、近隣諸国に及ぶことにもなるかもしれません。
 どうしてこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因は明らかです。原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったためです。かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことがあり、安全基準の見直しが求められていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。どうしてかというと何百年に一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。
 また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するはずの政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節があります。
 日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族のようです。我慢することには長けているけれど、感情を爆発させることにはあまり得意じゃあない。そういうところはバルセロナ市民のみなさんとは少し違っているかもしれません。しかし今回ばかりは、さすがの日本国民も真剣に腹を立てると思います。
 しかしそれと同時に私たちは、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないはずです。今回の事態は、我々の倫理や規範そのものに深くかかわる問題であるからです。
 ご存じのように、私たち日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。1945年8月、広島と長崎という2つの都市が、アメリカ軍の爆撃機によって原爆を投下され、20万を超す人命が失われました。そして生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていきました。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものか、私たちはそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。
 広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。
 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
 素晴らしい言葉です。私たちは被害者であると同時に、加害者でもあるということをそれは意味しています。

核という圧倒的な力の脅威の前では、私たち全員が被害者ですし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、私たちはすべて加害者でもあります。
今回の福島の原子力発電所の事故は、我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害です。しかし今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。私たち日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、自らの国土を汚し自らの生活を破壊しているのです。
どうしてそんなことになったのでしょう?戦後長いあいだ日本人が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?私たちが一貫して求めてきた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?
 答えは簡単です。「効率」です。efficiencyです。
 原子炉は効率の良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を抱き、原子力発電を国の政策として推し進めてきました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。
 そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、この地震の多い狭く混み合った日本が、世界で3番目に原子炉の多い国になっていたのです。
 まず既成事実がつくられました。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくなってもいいんですね。夏場にエアコンが使えなくてもいいんですね」という脅しが向けられます。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。
 そのようにして私たちはここにいます。安全で効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けたような惨状を呈しています。
 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかったのです。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。
 それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、私たち日本人の倫理と規範の敗北でもありました。
 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
 私たちはもう一度その言葉を心に刻みこまなくてはなりません。
 ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。
 「大統領、私の両手は血にまみれています」
 トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、言いました。「これで拭きたまえ」
 しかし言うまでもないことですが、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界のどこを探してもありません。
 私たち日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の個人的な意見です。
 私たちは技術力を総動員し、叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求するべきだったのです。それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、私たちの集合的責任の取り方となったはずです。それはまた我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を私たちは見失ってしまいました。
 壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは私たち全員の仕事になります。それは素朴で黙々とした、忍耐力を必要とする作業になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなが力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。
 その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げていかなくてはなりません。それは私たち全員が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人を励ます律動を持つ物語であるはずです。
 最初にも述べましたように、私たちは「無常」という移ろいゆく儚い世界に生きています。大きな自然の力の前では、人は時として無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、そのような危機に満ちたもろい世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も私たちには具わっているはずです。
 僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけることは、僕にとって大きな誇りです。私たちは住んでいる場所も離れていますし、話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつ私たちは同じような問題を背負い、同じような喜びや悲しみを抱く、同じ世界市民同士でもあります。だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られるということも起こります。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることをとても嬉しく思います。
 夢を見ることは小説家の仕事です。しかし小説家にとってより大事な仕事は、その夢を人々と分かち合うことです。そのような分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。
 カタルーニャの人々がこれまでの長い歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、独自の言語と文化をまもってきたことを僕は知っています。私たちのあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。
 日本で、このカタルーニャで、私たちが等しく「非現実的な夢想家」となることができたら、そしてこの世界に共通した新しい価値観を打ち立てていくことができたら、どんなにすばらしいだろうと思います。それこそが近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、ヒューマニティの再生への出発点になるのではないかと僕は考えます。
 私たちは夢を見ることを恐れてはなりません。理想を抱くことを恐れてもなりません。そして私たちの足取りを、「便宜」や「効率」といった名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。私たちは力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」になるのです。
 最後になりますが、今回の賞金は、全額、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあった人々に、義援金として寄付させていただきたいと思います。そのような機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝します。そしてまた先日のロルカの地震で犠牲になった人々に一人の日本人として深い哀悼の意を表したいと思います。